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七つ森 七薬師以前の謎を追う

僕の住む、大和町の町民憲章
わたくしたちは、明るく豊かな郷土大和町を築くため、
一、船形山を仰ぎ 理想と文化を高めます。
一、七つ森を愛し 和の心と豊かな人間性を培います。
一、吉田川の流れに 清き心とすこやかな体をつくります。
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年の瀬の一日を僕のライフワークとも言える、七つ森の七薬師以前の歴史を探求する一日に当てた。

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七つ森と言えば朝比奈三郎伝説であるとか、山歩きする人にとっては七薬師掛けなんかが一般的に知られるところだろう。
七つ森がいつからどうして「七つ森」と呼ばれるようになったのかは、僕の中ではすでに得ている知識のひとつであって、今の興味ではない。



今のところ、ひとつの物語として中世以前の七つ森を表現することは出来ないけれど、七つ森が七つ森と呼ばれる以前の古代自然信仰の対象としてとか、東北が蝦夷のものであった頃の「アラハバキ」、朝比奈サブロー伝説の真実?などの謎解きが僕の大きな興味となっている。

冒頭の年の瀬の一日というのは12月24日のことで、この記事を書くまで5日も経ってしまっている。なかなか頭の中で整理しきれていないと言うのが実情なのです。
まあ、順を追って僕が推察したことや疑問など含め当日の話しをつらつらと書き述べて行くことにしましょう。

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まずは、たんがら森の麓にある「玉が池」。玉が池には大蛇にまつわる伝説というか民話が残っている。
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今はダムの底に沈んでしまった「蛇石(じゃせき)」。玉が池の大蛇伝説の元になった大蛇の頭のような形をした大石。
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七つ森の笹倉山を除いた六座の岩クラ山を挟んで、たんがら森の反対側(南側)にある堂ケ森(どんがら森)の麓にある「蛇神様」。

そして、●倉山にあった洞窟のことを石神山精神社の先代宮司に訊ねた時の「昔の人が鉄を探したのではないか?」という答え。

「蛇=龍」と「岩クラ山=鉄」
この二つを結びつけると、見えてくるのが古代信仰の謎の神「アラハバキ」なのである。大河ドラマになった「炎立つ」阿弖流為を描いた「火怨」などの著者である高橋克彦氏の「東北・蝦夷の魂」によれば「アラハバキ」とは・・・ご神体は黒光りする鉄の塊という謎の神で、未だに正体は解明されていない・・・とある。深掘りしていけば、それは蘇我氏との争いの末に津軽に逃れて来た物部氏、さらには古事記や日本書紀、突き詰めれば古代文明発祥のシュメールにまで話が及んでしまうので、ここでは省略。

ここで七つ森以前の七つ森を考えるうえでの今回のキーワードの一つが「鉄」。


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七つ森を作ったと民話が残る「朝比奈三郎伝説」。今では大和町のマスコットキャラクターにまでなった「サブロー」だけれど、この民話の真実は鎌倉幕府による策略だったのではないか?と考えている。

朝比奈三郎とは、鎌倉時代の実在の人物で「朝比奈義秀」という勇猛で名をはせた源頼朝の家臣。
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この朝比奈義秀を主人公にした伝説は全国にいくつかあって、今回注目したいのは鎌倉市と横浜市を結ぶ、岩山を幅4m高さ10m以上も切り下げて作られた峠道の伝説。この開削道路を「朝比奈切り通し」と言い、朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたという伝説がある。この道は鎌倉幕府の軍用或いは交易のために整備されたものなのだろうが、こうした伝説を残すということは、勇猛な朝比奈義秀を幕府のイメージキャラクター的な存在として幕府のイメージアップを図るPR活動の一環だったのではないかと考えた訳です。

東北と源頼朝との関わり合いと言えば、奥州合戦。源義経を逆賊とし義経を匿った平泉の藤原氏を討つという大義名分で東北制圧を行ったという「正史」があるけれど、彼が東北を手中に収めたかった本当の理由は軍事資源としての「鉄」「毛皮」「馬」などであったという説もある。僕も本当のところは後者なのでは?と思う。だとすれば、古代から蝦夷によって「アラハバキ信仰」の対象として崇められていたクラ山の連なり(現在の七つ森)も、鉄を求める彼らが目を付けない訳がない。
古代自然信仰やアラハバキのイメージを払拭するため、そして所有権と鎌倉幕府のイメージアップを図るために朝比奈三郎義秀をイメージキャラクターとしたPR活動が、伝説(民話)として今につながっているのではないか?という発想に結び付く訳です。これは僕の思いついた仮説だけれど、正確な記録も無いし具体的に実証した例も無いので、「チバ説」として好きに言えるのですね。チバ説によれば、鎌倉時代のイメージキャラクターが八百数十年後に町の公式マスコットキャラクター「サブロー」となっているのだから、鎌倉幕府の遠大な策略は功を奏したと言えるということになる。

ここまでが、アラハバキとサブロー伝説の真実?のお話しの概略。もっともっと詳しく一つ一つを説明していくとブログの記事でなんて書き切れないボリュームになってしまうし、読む方も大変でしょうからこのくらいですね。


次は、僕にはわからないこと。そして余談です。
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七つ森の北端のたんがら森は文珠菩薩を奉っていて、
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南端のどんがら森のその先に、千手観音と象に乗った普賢菩薩の石仏がある。
文殊菩薩と普賢菩薩と言えば、釈迦如来の脇侍である。七薬師とは別に七つ森には釈迦信仰があったのかも知れない。

この石仏の謂れをご存知かもしれないと思い、近くにあるお寺を訪ねた。
ご住職は、今年の4月から住職として来た方で、この石仏のことはまだ見たことがないと言うので連れだって石仏までご案内した。当然謂れについては分からない訳ですね。しかし、歩きながら面白い話を聞いた。
ご住職は秋保の向泉寺の生まれだと言う。向泉寺と定義如来西方寺は姉妹寺で、向泉寺にも平家ゆかりの秘仏があると言うのだ。ふむふむ、、、これは向泉寺に行ってみるべきだと思った。というか、元々この後に秋保のほうに行くつもりだったので丁度よかった。

秋保向泉寺の前に、そのお寺で目を見張るものを見させて頂いた。
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不動明王の木像。
大和町には「白翁瀧不動尊」があり不動明王を奉っているのは知っていたけれど、他にも木像の不動明王があったことは知らなかった。
しかも、なんという幸運!修復のために明日搬出すると言うのだ。修復前の最後の明王像を見ることが出来たのである。

そして秋保へ・・・。
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平家ゆかりの秘仏とは!・・・僕が説明を書くよりも案内板を見てもらったほうが良いでしょう。
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平家ゆかりの阿弥陀如来と前面に強調している定義如来の秘仏が、平家の重臣であった平貞能(さだよし)公が奉持した阿弥陀如来の掛け軸(画像)であるのは周知のことであるけれど、ここ向泉寺の秘仏は阿弥陀如来像なのである。像と画像の二つを携えて来た平清盛公の子である重盛公の孫長基公が木像は自分が守り、画像を家臣の貞能に託したと言うのは、いわゆるリスク分散だったのではないかと思う。
僕は知らなかった。
定義如来の公式サイトを確認してみても、貞能公と掛け軸(画像)のことしか書いておらず、長基公と阿弥陀如来像のことには触れていない。直系の子孫が奉持した仏像と家臣が奉持した画像。これまた語弊を生むかもしれないけれど、差がついちゃいますねえ。触れていないってことは、あまり知られたくないこと?公式サイトですから「正史」な訳で、やっぱり触れたくない事は「正史」には載らないってことなのだろう。

寺の敷地を一回りしてきたところで、ここでも何という幸運!
阿弥陀堂の裏手に着いたところで、お堂の扉が開く音がした。ご住職が阿弥陀堂の中の掃除をしに来たのである。思いがけず「秘仏」であるはずの「小松如来(阿弥陀如来像)」を拝観することが出来たのである。もちろん秘仏なので写真は撮っていない。
直接お話を伺うことが出来た向泉寺のご住職は大和町のご住職とそっくりだった。「父親と母親が同じですからねえ~」と笑い「定義如来さんのほうが宣伝上手だったんでしょうねえ~」とも言っっていた。

最後に、当日もともと行くつもりだったところって言うのは、秋保から釜房ダムのほうに向かった本砂金地区にある「熊野宮」。
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冒頭の写真は、社殿へ向かう杉並木の石段。

何故、ここに来るつもりだったのかと言うと、数日前に同じ村田町にある「森の栞」という農家レストランで食事をした帰り道に通りかかって、何故かここに来なければならないと感じたからだった。この場所に大きな鳥居があるのは前から知っていたけれど、立ち寄ったことはなかった。熊野宮という名前もその時初めて知った。

一通り境内を見て回り、屋根に据え付けられている社紋が気になった。
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丁度、参道の落ち葉掃きをしていたおんちゃんに聞いてみた。
「あの社紋は何を表しているのですか?」
八咫烏(やたがらす)だと言う。おんちゃんとは大変失礼な言い方であって話をお聞きすると、この神社を守ってきた33代目の当主、宮司さんだったのである。3本脚ではないけれど宮司さんが八咫烏と言うからには八咫烏なのであろう。八咫烏と言えば、後の神武天皇である磐余彦命(いわれびこのみこと)を熊野から吉野川を遡り奈良へと導いたと言われ、それこそ熊野神社の社紋でもある。
僕は咄嗟に神武天皇という名前が出てこずに「誰かを熊野から先導したという神話の烏ですよね?」と問うた。すると返ってきた答えは、「この八咫烏が先導したのは源頼朝。頼朝が八咫烏に導かれ合戦に向かい勝利した」と言うのである。
えっ!?源頼朝!?ここで出ましたかー!しかも平家のあとに源氏ですかー!
朝比奈三郎義秀のところで触れた「朝比奈切り通し」の近くにも熊野神社が祀られているという。なんとも奇妙な偶然だろう。朝比奈サブロー伝説のヒントを探そうと始まった一日の夕方に、偶然にもここで源頼朝の名前が出てくるとは・・・!

宮司さんは、33代前の先祖は源頼朝の家臣で奥州合戦に向かう途中で、この地に残されたのが当家の始まりだと言う。1代を25年程度とみれば時代的には一致する。
そして、僕が聞いた訳ではないけれど「この丘の向こうに安達ケ原ってのがあってさー」と話を始めた。福島にある鬼ばば伝説の安達ケ原ですか?と聞けば、「そう、鬼ばば。そこで鉄が採れたからさー、伊達藩の頃は秘密の鉄砲作りをしてて、鬼ばばが出るぞーって言い広めて人が近づかないようにしてたって訳さー」
ええっ!?「鉄」!?またまた出ましたかー!

帰り道で考えた。宮司さんは置いてけぼりされたって言っていたけど、軍事資源を求めて東北に進出した源頼朝軍がその安達ケ原という場所の鉄の鉱脈を守るためにここに残され社を設けたのではないか?と。

大和町の不動明王像のあるお寺、秋保向泉寺、そしてここ熊野宮。改めて訪ねて詳しいお話をお聞きしたいと思う。

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七つ森と直接関係することではなかったけれど、僕の興味を掻き立てるには、そして想像を膨らませるには十分すぎるほどの一日だった。
熊野古道を思わせる(行ったことないけど・・・)古い石の階段を下り降りる僕は大きな満足感に満たされていた。



by mt1500funagata | 2019-12-29 22:28 | 七つ森界隈 | Trackback | Comments(0)