2013年 06月 01日
やまなし
六月一日
「クラムボンはわらったよ。」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」
「クラムボンは跳ねてわらったよ。」
「それなら、なぜクラムボンはわらったの。」
「知らない。」
つうと銀いろの腹をひるがえして、一匹の魚が過ぎて行きました。
「クラムボンは死んだよ。」
「クラムボンは殺されたよ。」
「クラムボンは死んでしまったよ・・・・・・。」
「殺されたよ。」
「それならなぜ殺された。」
「わからない。」
魚がまたツウと戻って下流のほうへ行きました。
「クラムボンはわらったよ。」
「わらった。」
にわかにパッと明るくなり、日光の黄金(きん)は夢のように水の中に降って来ました。
波から来る光の網が、底の白い磐(いわ)の上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。
「お魚はなぜああ行ったり来たりするの。」
「何か悪いことをしているんだよ。とってるんだよ。」
「とってるの。」
「うん。」
そのお魚がまた上流(かみ)から戻って来ました。
今度はゆっくり落ちついて、ひれも動かさず、ただ水にだけ流されながら・・・。
その影は黒くしずかに底の光の網の上をすべりました。
「お魚はどこへ行ったの。」
「魚かい。魚はこわいところへ行った。」
「こわいよ。」
「いい、いい、大丈夫だ。心配するな、そら、シロヤシオの花が流れてきた。
ごらん、きれいだろう。」
光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしずかに砂をすべりました。
前回に続きパクリ、宮沢賢治「やまなし」の一節です。
大人になって宮沢賢治を読み返すと、童話じゃないよなって思います。
会話をしているのは蟹の子供らです。魚を捕ったのはカワセミです。
でも、この物語の中のどこかに自分がいる。
傍観し怯える蟹か?
悪いことをして行ったり来たりしている魚か?
その魚を捕ったカワセミなのか?
クラムボンを殺したのは僕なのか?
「せしうむ」か?
いや、クラムボンこそが僕らのことなのか?
釣竿もって船形山のそこいらへんに行って歩いて来たのですが、「やまなし」を想うと、
なんか、イワナを釣って食べるって気にならなくて、写真だけになっちゃいました。
途中ヌメリツバタケを見つけて喜んだり
これぞ、ホントの流水麺って、そばを沢水に晒したりして
「洋風冷やし流水そば」を作って食べて・・・。
そうそう、キノコソテーもね!
森の中の沢で初夏の一日を過ごしてきたのです。
ちょっと写真も撮ってきました。