2017年 04月 01日
七つ森 うん蓄を語りながら「九掛け」
其山形聳然として犬牙相列り。人常に指示す。何れの峯巒なる事を疑ふ。故に郷人七つ森と呼。
===うん蓄 その1===
七つ森が「七つ森」と呼ばれるようになったのは、仙台藩4代藩主伊達綱村(1659年~1719年)以降のこと。
仙台藩の儒学者、佐久間洞巌が1719年に完成させた仙台藩の地誌である「奥羽観蹟聞老志」に登場する。
ちょっと分りづらいですね。
「聞老志」の改訂版とも言える「封内名蹟志」(1741年)の書き下し版を見てみましょう。
仙台藩地誌の最終版とも言える「封内風土記」(1772年)
よーするに・・・・・
宮床村と吉田村に跨がり連なる七つの山があって、この地を訪れた先君肯山公(伊達綱村)が
「この山並みは牙のように列していて格好良いじゃん。そうだ!中国に九つ並んだ九疑峰って名勝があるらしいから、この地もそれになぞらえて七疑峰(ななつもり)って呼ぶようにしようぜ!」
「さすがは殿!素晴らしい思いつきでござる。郷の者にも七つ森と呼ばせることにしましょう」
こうして土地の人々はこの地を「七つ森」と呼ぶようになった。
・・・・・ってことでしょ?
注)九疑峯=中国寧遠県南部にある名勝地。名の通り九つの峯からなる。中国五帝のひとり「舜」の終焉の地とされている。
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一通り、七つ森の名前の由来うん蓄を語り終えたら「九掛け」へと向いましょう。
ご承知の七峰+たんがら森を含めて八掛けを行う人も多くいるけれど、今回は「九掛け」なのだ。
七つ森へ行くときは↑こんなシートを作って持っていくと楽しさが増す。以前は南川ダムの資料館でこんなシートを配布し完成した人には記念品を渡していた。
七薬師掛けを行う場合、信楽寺(しんぎょうじ)跡を起点として松倉山から登り始めるのが一般的だけれど、玉ケ池を起点として、たんがら森を経て遂倉山から登り始めるのが正しい(私的見解です)
朝比奈三郎という大男が弓の的を造るため品井沼から大きな背負い篭(たんがら)で土を運び、タンガラからこぼれた土がタンガラ森となった(諸説あり、土地ごとに内容は変わる)朝比奈三郎とは実在の人物(鎌倉時代の猛将、朝比奈義秀)であり、その伝説は鎌倉時代へと遡る。
===うん蓄 その2===
国土地理院の地図に「たがら森」と記載されているけれど、旧称「龍ケ森」と書いて「たんがら森」と読むのが正しいのではないか?と思っている。
今回、九掛けって言ってますけど、九ってのは上記7つの倉山と「たんがら森」と「どんがら森」を足して九ってこと。
どんがら森って松倉山の南にある標高91.5mの山って言うよりこんもりした森。
手前の石碑は、鎌倉時代のものである「草野川碑」右奥は松倉山。上の「封内名蹟志」をもう一度見てください。草野川のことが書いてあるでしょう。
背負い篭のことを「タンガラ」と言い、中身がなくなって骨組みだけになったものを「ドンガラ」と言う。
つまり、朝比奈三郎が七つ森を作り終えて、空になったタンガラを置いた所が「堂ケ森=どんがら森」なんじゃないか?と僕は考察する訳です。
草野川もかつては風光明媚な場所であったのであろう。
様々な文献を調べ、地元に伝わる伝説や民話を聞いて回ると、鎌倉時代には玉ケ池と龍ケ森(たんがら森)、草野川と堂ケ森(どんがら森)がそれぞれセットになって、遂倉山から松倉山までを挟む中世以前の自然信仰があったのだろうとの推測が導かれるのである。
南川ダムの上流に「蛇石せせらぎ公園」ってあるのご存知ですか?
蛇石(じゃせき)ってのは、今はダムに沈んでしまったけれど大きな蛇の頭のような石があって、その蛇石は玉ケ池の大蛇伝説に由来する。
堂ケ森の近くには「蛇神様」が祀られていて、こちらも蛇。
蛇に挟まれた六つの岩山の磐座(いわくら)信仰。そこから見えて来るのは、古代自然信仰の神「アラハバキ」。(興味のある方はアラハバキでググってみてください)
七つ森って、古代から自然信仰の対象となっていて、それぞれのクラ山(磐座)に神や祖先の魂が宿ると考えたクラ山信仰に朝比奈三郎伝説が重ね合わされ、修験道と薬師信仰が習合し、さらに近世になって七疑峰と呼ばれるようになったのに合わせて七仏薬師信仰へと発展していったのだろう。(僕の私的見解ですが、あながち的外れだとは思っていません)
*関連記事「七つ森、信仰の源流を探る」(ぜひ読んでみてください)
http://bunatayori.exblog.jp/26300525/
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長くなりました。
いよいよ歩き始めましょうね!
いよいよ春の兆しが現れ始めた。
急で岩のごつごつした斜面をひと登りすれば、たんがら森。
===うん蓄 その3===
たんがら森の麓(玉ケ池のほとり)に、かつては龍ケ森文殊堂ってのがあって、元々たんがら森は文殊様を祀っている山。
上記の七つ森(七疑峰)の由来を見ても分るとおり、ガイドブックに書かれている・・・旧来七つ森とはタガラ森を含めて七つだったのが笹倉山を入れて七つに変わった・・・ってのは誤りだってこと。
あと、笹倉山(大森山)の薬師堂に各山の薬師仏が合祀されたってのも違いますからね。文献調べれば、間違いにはすぐ気づくはず。大森薬師堂や尖倉(遂倉)、鎌索(鎌倉)薬師堂についての記述が出てくる。
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たんがら森から遂倉山への途中の岩場を眺めると、七つ森がクラ山信仰の対象であっただろうと思わせられる。
山頂に着いたら、スタンプラリーのスタンプを記録しましょう。
今年は3月の気温が低かったせいだろう、春の花の開花は遅れている。
蜂倉山から大倉山への途中に
見晴らしの良い撫倉山山頂からは、麓にある僕の家が見える。(肉眼では無理だけど・・・)
一番若い顔をしていると思う。
七薬師掛け一般コースとして紹介されているルートを逆に辿ってきた訳ですね。
七仏薬師信仰ってのは簡単に言うと、姿を変えた六つの薬師如来の世界を経て、本当の薬師如来の世界に到達するって考えに基づく訳だから、大森薬師堂を本地とするならば、遠くから始めてだんだん近づいて行くこの順番が正しいと僕は考えるのです。興味のある方は「七仏薬師信仰」でググってみてください。
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ここまでの、道々の案内は多くの方がブログ等で載せているので、道の詳細はそちらを参照してくださいね。
信楽寺跡の駐車場にデポした車に戻る前に堂ケ森へと向う。
駐車場から遊歩道と反対に歩き、道なりに右折。丁字路を直進しその先の細い私道を今度は左折すると赤い鳥居が目に入る。
標高91mなので、10分もかからずに頂上へ届く。
ほかの山の薬師様より年代は新しく、この薬師様は大森山を向いていない。
最後は笹倉山(大森山)薬師堂へ
今回は長かったねえ~!
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いつも、ためになるお話をありがとうございます。
こちらの記事を拝見して先日堂ヶ森を訪れてみました。
こちらの記事をブログ内にリンクさせていただいても
大丈夫でしょうか。どうぞよろしくです~。
記事のリンクはOKと言うか望むところです。本内容は誰かの受け売りではなく、僕自身が県立図書館や大和町の資料室に通い、地元の古老などの話を聞き歩いてまとめたオリジナルです。
たんがら森は元々「七つ森」とは関係がないことは明らかですし、タガラ森と呼ばれることに違和感を持っています。大和町の刊行物やHPでもすべて「たんがら森」となっています。
記事には書いていませんが多賀城にあるアラハバキ神社にも足を運んだのですよ。
正しい七つ森の理解を広めていただきたいと思っています。
山(七つ森)への愛情を感じました。
コメントありがとうございます。
僕にとって七つ森は地元というか裏山みたいなもので、登る眺めるだけでなく、時間軸でもっと深く知りたいと思っています。同じ大和町ですが伊達家のあった宮床地区と僕の住む吉岡地区では七つ森の見え方が違ってくるので、七薬師以前の自然信仰に興味を抱いた訳です。石仏や石碑は当時を偲ばせる確かなものが、その場に存在している訳で偏平足さんのブログもとても参考になります。今後ともよろしくお願いいたします。
こんばんは。七つ森は場所によってはわかりにくいところもありますからね。僕は一般ルートの情報はあまり載せていないので宜しくお願いします。
バリエーションルートの詳細公開は必要ないと言うか、するべきではないと思っていますが、整備されている一般ルートも部分的には分かりにくかったり、或いは知る人そのものが少ないと言うこともあるように思います。ガイドブックでは紹介しきれないような七つ森の魅力を伝えて頂けるよう期待したいと思います。