2016年 11月 26日
高倉山の胎内くぐり
大和町七つ森の奥、船形連峰の前衛峰で標高は854m。
今日は高倉山へただ登りに行くのではない。
高倉山と民族信仰との接点を探しに行くのだ。
富谷や大和町吉田から見える端正な山容に、昔の人々が信仰の心を持って対峙していなかった訳がない。もちろん「倉」の付く山名、山頂に祠がある訳だから信仰の対象となっていたのは明らか。
明治5年に明治政府が修験道廃止令を出した当時、日本全国に約17万人もの修験者がいた。当時の人口は3300万人程度、要するに明治以前は修験行者が至る所に存在していたと言う事。(正木晃著:現代の修験道より)
その中には高倉山を修行の場とした修験者もいたんじゃないか?
高倉山の山中に、僕は以前から気になっていた場所があった。
以前は四輪駆動の車なら進入できた林道も、今は荒廃が進み洗掘によって通行は不能。
無理して入り込めば、、、
林道を歩いて行き、尾根に取り付く。
僕は、この岩場は修行の場ではなかったのか?って思っていた。
僕が修験の場として高倉山に入るのだったら、ここで修行をするなあ。
泉ケ岳の薬師水コース(表コース)の胎内くぐりは有名だけれど、僕はここの岩場でも胎内くぐりがあるんじゃないかと目を付けていたのだ。
<<胎内くぐり>>
山岳や霊地の行場で、狭い洞窟や割れ目を通り抜ける場所に付けられた名称。修験者や行者などは山岳や霊地を他界または胎内とみて、その中を巡歴して修行しいったん死んで生まれ変わる擬死再生の行を行ったが、胎内くぐりによってその観念を抽象的に実践して確認した。これによって一切の罪穢を捨て、肉体と魂を浄化し、新たに生まれ変わるという考え方を行動で示したのである。この考えの背景には、洞窟が一方では他界への入口とみなされ、他方では霊魂のこもる活力を復活する場として、神聖化されたことが関連している(世界大百科事典より)
こんな場所を至る所にいた修験者が一人も目を付けなかった筈がない。
何か人が関わった痕跡がないか探してみたけれど、今日のところは何も見つからなかった。だから、これは僕の想像でしかないのだけれど、きっとこの場で歴史にも残らない名もなき修験者が修行していたのだと思う。
こう言っては何ですが・・・泉ケ岳の胎内くぐりより胎内くぐりらしさを感じます。
岩場をあとにしたら、標高775mの東コブまで尾根づたいに急勾配をひたすら登る。
栗駒や焼石連峰、神室連峰から鳥海山まで見える展望が開ける。
春には沢山の花が咲き、踏み跡も無いものだから、足の置き場に苦労するほどになる。
山頂から少し西のほうに歩くと視界が開け、
船形連峰の主稜線が一望に出来る。
こんなに面白くて良い山なのに、登る人少ないのってもったいないなあ~。
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どこから尾根に取り付いたのか?とか胎内くぐりって何処にあるのか?ってのは、敢えて詳しく書きませんでした。登山道のない、こんな山って「自分で」地形図みて「自分で」現地判断して「自分で」ルートを探し、行った先に胎内くぐりの岩場を見つける。こんな登り方が楽しいのではないでしょうか?GPSの軌跡や詳細な案内に頼って登るより、ずっと楽しいと思いますよ。
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本当に泉ヶ岳山麓ながらここは遠い山ですねぇ。
私は西側から1回しか登ってませんが藪なれしてなかったので当事は大変だった。
胎内潜りがあるとはね、そういえば蘭山の東尾根は胎内潜りは無かったけれども展望の見晴らし岩があった。ここでも修験者たちが集まったのだろうかと…。
高倉山の山頂は広くなって相撲取り…いえ、ごろ寝できそうになりましたかな。楽しみです。
今回の尾根ルートは籔こぎはほとんどありませんよ。夏場も大したことないと思います。
蘭山の東尾根、痩せた岩稜ですよね。僕が行った時は岩に薄く雪が積もって、とっても歩ける状態ではありませんでした。スリリングな場所ですね。
花の時期に高倉山山頂で焼肉なんてイイですね!